雑貨ゆーかりたいむ

見た目にはあまり変わらないけど色々変更終了。
長い記事に、続きを読むを実装しました。Σd('ー'*)

親の入院が決まったので、また少しバタバタしてます。（￣▽￣）

• どうでも+いい人？　著：月見猫
  月見猫による、オリジナルショートストーリー。
  ある冬の夜、懐かしい女性と再会する仁。
  その再会が意味する事とは。
  

飲み屋を出ると眼鏡のレンズが白く曇った。
ハンカチで拭いて振り返ると、連れの二人が見えた。
「俺、寄るところあるから」
「おう。それじゃ、またな」
「仁。またね～」
手を振る二人に笑って手を振り返す。
「ああ、また」
俺は背を向けて一人、夜の街を歩き出した。

ゴトゴトッ……ガタンッ。
自動販売機でウーロン茶を買った。キャップを開けて一口飲む。ほどよい苦味とともに、口の中が少しだけすっきりした。
「ふぅ……」
俺はため息をついて、ベンチに腰を降ろす。夜の公園はひっそりと静まり返っていた。
遠く地上には駅前の喧騒。立ち並ぶ街灯の光。家路を急ぐ人々の群れ。寄り添って歩く恋人たち。天を仰げば自分の白い息とその向こうにある星空だけが見える。
「はぁ……」
また、ため息。
寒い。酔いで火照った体には気持ちいいけれど、それもコートとマフラーをしてやっとの話。酔いが醒めれば凍えることになる。醒めないうちに早く帰った方がいいだろう。
でも、俺はぼんやりとベンチに座って星空を見上げている。
「寄るところがある」と言った。それがこの場所。厳密には嘘。
用事なんてない。ただ、一刻も早く二人と別れて、一人になりたかっただけ。
タンッタラタータラ　タラタラターラタ　ターラタターラ　ターラータラタンッ♪
懐の携帯がメールの着信を告げる。
取り出して見るとさっき別れた友人の一人――晃からだった。
“気を使わせてわりぃ。今度は二人で飲みに行こうな。”
おや、お見通しということらしい。気を使うにしてもいささか露骨だっただろうか。
反省の余地ありだなと俺は苦笑して、返信のメールを打つ。
“気にしてない。それより彼女の相手に専念するべし。彼女といる時に男友達にメールってのもまずいだろ？それでは音信途絶。健闘を祈る。”
送信をしてパタンと閉じて、携帯を元の懐に突っ込んだ。代わりに煙草を取り出して咥えて、ジッポで火をつける。
カチンッ……シボッ……カチン。
煙草の紫煙は口中を通って肺へと至り、吐き出される。臭みを伴った甘さはいつもの味。匂いはきつい。臭いと嫌う人が多いから、飲み屋では遠慮していた。晃の彼女――美里は「煙草吸ってもいいよ」とは言っていたけど、それで「じゃあ遠慮なく」と吸えるものでもなかった。
しかし、待ちわびていた一本は少し苦かった。
晃はいい男だ。美里もいい女だと思う。二人とも俺のいい友達だった。
だから、憎めない。憎もうとしても憎めない。それが憎らしいけど、やはり憎めない。
「ふぅ……」
短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、またため息をつく。ウーロン茶を呷りながら、ずいぶん前に晃と二人で飲んだ時のことを思い出した。

あの時も晃の愚痴――美里とのことを聞いていた。それが「なんで、仁は彼女を作らないのか？」と言う話になって「いらないから」と答えた俺に晃は言った。
「仁って歪んでるよなー」
俺と晃は本当に付き合いの長い友人だ。悪口も遠慮なく叩き合う。私は答えた。
「ああ、性格悪いのは自覚してる。何よりお前の話を聞いてる限りじゃ……女と付き合うのは、面倒なことこの上なさそうだしな」
「うわー……本当にダメ人間だな」
「うむ。甲斐性のなさには自信があるぞ」
胸を張って言った俺に晃は額に手を当てる。
「開き直るな！……ったく、老け込みやがって」
俺はフッとわざと気障に笑って答えた。
「落ち着いていると言ってくれ。そうそう晃、俺は思うんだが……」
「ん？」
「男が告白して振られる時さ、女が『○○君っていい人なんだけど、ごめんなさい。友達でいようね』とかよく言うだろ？」
「ああ」
「あの言葉にある『いい人』っていうの、どういう意味かわかる？」
「んー……フォローだろ？」
「ああ、そうなんだろうけど。俺はこう思うんだ。その上には『どうでも』って言葉が省略されてるってさ。だから、『どうでもいい人』ってわけ」
「うわっ！暗っ！お前やっぱ歪んでるよ」
「捻くれ者ですからねぇ」
指を差して言ってくる晃。彼の予想通りの反応に俺は笑った。やがて彼も笑い出した。二人で笑いながら夜遅くまで、杯を傾けていた。

今日も美里に「仁っていい人なのに」と言われた。晃の手前冷やかしの冗談で返した俺は、すぐに酒のお代わりを頼んで誤魔化した。
カチン……シボッ……カチン。
二本目の煙草を咥えて、火をつけた。
確かに俺は「いい人」だった。自分でもそう思う。晃や美里に対してだけじゃない。二人とは別の学校で過ごした高校時代も、やはりそうだった。よく言われていた。
友達が恋をした。援護してやりたかった。
友達が失恋した。励ましてやりたかった。
友達が何かをしたいと言った。手伝ってやりたかった。
そいつと求めるものが同じでそれが一つしかなかった時でも、一方で自分が何かを諦めなくてはならない時でも、俺はできる限りそうしてきたから。
別に自分がよく見られたいとか、何か意図があってしたわけじゃない。本当に、真実、心の底から、自分がそうしたいからした。後悔なんてないはずだった。
「はぁ……我ながら損してるよなぁ」
でも、俺はそう呟いて掌を覗き込む。
空の掌は容赦なく現実を突きつけてくる。

見ろ。俺には何もない。

「いい人」「いいやつ」……散々そう言われてきた結果がこれだった。
結局、俺は薬みたいなものだったのだろう。病気の時は必要だけれど、病気がない時はなくてもよかった。薬になっても毒にはならないから便利なだけで、いなければいないでいい人に過ぎなかった。
だから、俺は「どうでもいい人」なのかもしれない。
「ま、いいか……別に」
そう、別にいい。独り身は事実気楽だったし、晃に言った言葉に嘘はなかった。
煙草を携帯灰皿に押し込んで、ウーロン茶を飲む。
体が冷えてきた。そろそろ帰るとしようか。酒を買っていこう。飲み足りなかった。
ベンチを立ち上がろうとする。
「おにーさんっ！何黄昏てるの？」
若い女の声。その声はあまりに近かったので、かえって反応が遅れた。
「……え？」
いつの間に？
いくら考え事をしていたからといって、いくらなんでもこれはないだろう。
俺と同年代くらいの若い女――白いコートを着た彼女が立っているのは俺の目の前だ。美しい顔の作りも、茶色がかった瞳も、夜だというのに確認できるほどに真ん前。鈍いにしてもほどがある。飲み足りないなどというのは錯覚で、実は泥酔していたのだろうか。
「あら？驚かせちゃった？」
「あ。ああ、いや……ぼーっとしてただけです」
「うん。ぼーっとしてたね。今もぼーっとしてるね」
なんだこの女は。赤の他人の癖に人を馬鹿にしている。驚いたのは確かだし、ぼんやりとしていたのも確かだが、そこまで言われる筋合いはない。馴れ馴れしいにもほどがある。
大方、性悪な女だろう。声をかければ、法外な値段を取られるバーなりに容易く誘い込めると思ったのだろう。確かにこんな夜遅くに一人ベンチで凍えているような男は、格好のカモに見えるに違いなかった。駅前からここまで足を伸ばしてきて正解というわけだ。
俺は警戒感も露に告げる。
「あの。俺、もう行きますんで。すみません」
そう言って立ち上がろうとしたが、前に立つ彼女はどかなかった。
仕方ない。なるべく乱暴にならないよう、彼女を押し退けていくしかない。
そう思った時、
「ひどいっ！」
女がセミロングの黒髪を波立たせて声を上げた。タンッと彼女の靴が地面を打つ。
「あ……え？」
なんで彼女が怒るのだろう。逃げられた腹いせに、あらぬことでも叫び出すのだろうか。例えば「きゃー！痴漢！」とか。それは厄介だ。いつでも逃げ出せるよう身構えた。
「仁君、私のこと忘れちゃったの？」
「え？」
でも、続いた彼女の言葉は俺の予想をまたもや裏切る。まったくわけがわからない。
なんだ。今度は最近流行の詐欺か。いや待て。それならなぜ彼女が俺の名前を。
彼女はふくれっ面で左手を腰に置き、右手でびっと俺を指差してきた。
「もー！美希よ！美希！本当に忘れちゃったの？」
「へ……？」。
美希。美希……ああ、思い出した。言われてみれば、彼女の顔には面影がある。
美希は俺の小学校時代の友達だった。家は近所で幼稚園の頃から知っていたから、幼馴染といってもよい。昔は晃と美里を交えて四人でよく遊んでいたのを覚えてる。
でも、確か彼女は――
「に、二週間前に帰ったのよ。何よ？お化け見たみたいな顔して」
「あ……ああ、いや。本当にあの美希なのか？」
「そうよ。偽者だとでも言うの？」
「……そ、そうか」
俺は頭をブンブンと左右に振った。彼女は目を丸くしてそんな俺を見ている。
彼女はこうして目の前にいる。彼女は自分を指差して「美希だ」と言っている。
美希の一家は俺が小学校六年の時、外国に引っ越している。
彼女は二週間前に帰ってきたと言っている。
ここまでは符合はしてる。
でも、まだ信じられなかった。
だから、俺は彼女を試してみることにした。
「そっか……ごめん。変わってたから気づけなくてさ。久しぶり。でも、それなら連絡くれよな？二人も会いたがってるのに」
「あ……あはは。ごめんね。ちょっといろいろ忙しくって」
彼女は頬を掻いて目を逸らす。
「美里ちゃんと晃君、元気？」
「……ああ、ピンピンしてるよ」
俺はわずかに警戒を解いて、苦笑して答えた。
彼女の態度は怪しかったが、その答えは正解だったからだ。
俺は「二人」としか言っていない。彼女はその「二人」を「晃と美里」と答えた。
ならば……彼女は俺の知る美希なのかもしれない。
「そっか。よかったー」
彼女は柔らかい笑みを浮かべる。その笑顔も俺の記憶と符合していた。
俺は久しぶりに会った幼馴染を疑っている。そのことにわずかにちくりと胸が痛んだ。
ベンチから立ち上がる。
「え？どうしたの？」
「いやさ……積もる話もあるし、ちょっと飲み物の調達。あ、お酒は大丈夫？」
「うん」
「じゃあ、ちょっと待っててくれ。適当に近くのコンビニで買ってくる」
「ふーん……」
彼女は何やら目を細めたかと思うと、
「逃げたりしないよね？」
とんでもないことを訊いてきた。
「……そんなわけないだろう。ちゃんと戻ってくるよ」
でも、彼女の言葉はそれほど的を外れてはいない。
正直を言えば、俺はこの慣れない状況……彼女と二人きりであることに怯んでいた。
少し一人になって心の準備がしたかった。酒の助けを借りたかった。彼女が本当に美希なのか、まだ半信半疑なことももちろんあった。他にもたくさん理由はあった。
これらの克服のための一時撤退が、この買出しの隠れた目的だったからだ。
ところが、
「それなら一緒に行こうよっ」
彼女はそう言うと突然、俺の腕に自分の腕を絡めてきた。
「お、おいっ」
びっくりして、慌てて振りほどく。
「きゃっ……！」
「あ……！ごめん」
しまったと思った。乱暴にしたつもりはなかったが、あまり自信もなかった。
「もー……いいじゃない。仁君、そういうところ変わってないね。恥ずかしがり屋」
彼女はわずかにむくれたようだったが、口に手を当ててくすくすと笑っている。
「うぐ……いいからここで待ってろよ」
俺は彼女に背を向けた。
「うん。じゃ、待ってるね」
「あいよ。ダッシュで行ってくる」
振り返らずに手だけを挙げて、近くのコンビニへと走り出した。
顔に手を当てると、頬はまだ熱を持っている。腕には彼女の感触と温もりがほのかに残っている。高鳴る鼓動は今も収まっていない。走る足もどこか弾んでいるようだった。
胸がまたちくりと痛む。
それは先ほどのような罪悪感ではなくて、疼きのようなむず痒い痛み。
俺はそんな自分に舌打ちをしようとして……できなかった。

コンビニから戻って、まず俺は途方に暮れた。
久しぶりに会った彼女と、大人になった彼女と、一体何を話せばいいのか。道々考えてきた台本が、彼女を前にして綺麗さっぱり消えてしまったからだ。
俺がまだ彼女を美希だと信じ切れていなかったこともある。
でも、どう考えてもそれは言い訳に過ぎなかった。
そして、この我ながら情けない悩みは結局、無駄な心配に終わったようだった。
「晃君と美里ちゃんはどうしてるの？」
「……ふむ、聞いて驚くなよ？」
「何？」
「晃と美里は今つきあってる。恋人同士だ」
「え？嘘ー？」
「だろ？二人とも昔は喧嘩ばっかりしてたのにさ。喧嘩するほど仲がいいってね」
「ふふっ……仁君、昔からそう言ってたもんね」
「ああ。その度に晃にどつかれてたけどな」
俺は笑って、彼女も笑った。
彼女は端から俺を質問攻めにした。俺は冗談を交えてそれに答えた。
ほとんど俺が話しているばかりで、彼女は聞いているだけ。
だから、俺もはじめはおぼろげな記憶とつき合わせて、いちいち確認していた。
でも、彼女の受け答えや仕草は、思い出の中の美希とあまりに同じで、俺の罪悪感は強まる一方で、段々馬鹿馬鹿しくなってきて――
気がつけば、俺は色々なことをベラベラと話してしまっていた。
昔の話。美希がいなくなった後の話。俺と晃と美里がどうなったか。俺の中学、高校での生活はどうだったとか。今の大学での生活はどうなのかとか。晃と美里がつきあいだしたのはいつか。どういう成り行きだったのか。二人の仲はどうだとか。
夜空の下のベンチで彼女と二人、もう飽きることなく呆れるほどに話していた。
それなら……それでいいのかもしれない。
酒が功を奏したならそれでよかった。酒に溺れたのならそれでもよかった。騙されていたならば、黙って白旗を揚げよう。俺は腹を決めることにした。
彼女は俺の隣で、楽しそうに笑っている。
俺も俺で、そんな彼女を見て楽しそうに笑っている。
時間とともに空き缶が増え、空き瓶が増えていくことも気にならない。
笑っていた。心の底から笑えていた。それがどこか懐かしくて嬉しくて、また笑った。
「くしゅんっ」
彼女が小さくくしゃみをした。
「大丈夫か？」
「……あ、うん。大丈夫だよ」
彼女は笑って答えたが、細い肩は震えているようだった。
無理もない。俺は酔いで寒さを感じていないが、彼女はあまり飲んでいない。ちびちびと一缶カクテルを開けた後は、ジュースをたまに口にしているだけだ。
俺はため息をついて立ち上がるとコートを脱いだ。
「ほれ」
「あ……」
バサリと彼女の肩にかけてやる。
「大丈夫だってば……悪いよ。仁君は寒くないの？」
「うむ。酒が回っているので大丈夫だ」
「ふふっ……酔っ払いだ。あったかいなー」
彼女は俺のコートの襟を引っ張って、包まるようにして微笑んだ。
俺はたまらず目を逸らした。酒のせいではない熱が頬に灯る。
柄でもないことをした。よくもこんな大胆なことができたものだと今更ながらに思う。
「ほんと、仁君はいい人だよねー」
でも、彼女の一言は俺の頬の熱を奪った。
その言葉だけは今は聞きたくなかった。今だからこそ聞きたくなかったんだ。
「そうかな……俺は嫌なやつだと思ってるんだけど」
手にしていた缶ビールに口をつける。
「ううん。いい人だよ」
「ははっ……お前が言うならそうかも。でもさ」
俺は一口呷って、ベンチに腰を降ろして苦笑した。
「……それだけ、だよな」
本当にそれだけだ。いや、本当はそれすらも嘘だ。
「そんなことないよ」
「いや……本当にそうなんだよ」
飲みすぎたのかもしれない。酔った頭でもこうして愚痴るのは不味いと自覚していた。晃に「暗い」と言われて以来、ずいぶんこんなことはなかったように思う。
しかし、動き出した口は止まらなかった。
「『いい人』って何度も言われてきたけどさ。それ以外の言葉、俺は聞いたことないよ。好きだって言われたこともなければ、何の取り得もない。ただ、いいだけのやつだ」
「でも、仁君は……」
相手が誰でもよかったのかもしれない。聞いてほしかったのは。
相手が彼女だったからかもしれない。耐えられなかったのは。
「やめてくれ」
缶ビールをグシャリと握り潰した。中身が溢れて手を濡らした。
「どいつもこいつも……俺を『いい人』って言えば満足する馬鹿だと思ってるのかもしれないけど。俺も彼女がほしかったさ。俺だって誰かの一番になりたかったんだ」
「仁君……」
「誰かがそのうち、俺のことを『いい人』以上に想ってくれる時が来ると思ってた。だけど、そんな時なんて一度もなかったんだ。いつでも『いい人』止まりで、誰かが幸せになるのを見てるばっかりだった。別に見返りがほしくてそうしてきたわけじゃない。でも、もう……たくさんなんだよ」
言い切って俺は黙り、彼女も黙った。
この夜はじめて訪れた沈黙は瘡蓋を剥がしていくように、忘れていたものを暴き出していった。冷たい夜気はそのために、熱くなった頭と心にゆっくりと水をかけていった。
そうして、ビールで濡れた右手をようやく冷たいと感じた頃。
ギリ……
知らず噛み締めた奥歯がわずかに音を立てた。
口を開いた時から、こうなることはわかっていた。
「……ごめん」
俺は自分の手で、彼女との時間をぶち壊した。どうしようもなく、馬鹿みたいに。
わかっていたはずなのに。後悔が氷柱のように心をえぐる。
「ほんとにごめんな……久しぶりに会ったってのに」
これでは何も手に入れられないのも当然だと思えた。
俺は「いい人」なんかじゃない。彼女に言ったように、本当は「嫌な人」。
本音を隠して「いい人」を演じているだけの、臆病で不器用な偽善者。その癖、不平不満は一人前に溜め込んでいる。胸一杯のそれを誤魔化すために、自分にも他人にも嘘ばかりついている「嫌な人」だった。
いや、もう「嫌な人」ですらないのかもしれない。「嫌な人」を貫くなら、自慢の嘘で「いい人」を演じ切ればよかった。思い出しか知らない彼女の前ではそうしていればよかった。それなのに、そんなことすらできなかった。
今の俺は本当に――「どうでもいい人」だった。
「ふぅ……」
俯いた俺の隣で、彼女はわずかにため息をついたようだった。
逃げてしまいたかった。すでに十分無様で、逃げてもそれは変わらない。
でも、できなかった。彼女の罵声でも、無言の別れでも、どんなに怖くても受け止めないといけないと思った。ここで逃げたら……たぶん、俺は俺を一生許せなくなる。
俺はベンチを立つことなく、ただ俯いていた。
「……やっぱり、仁君は仁君か。変わってないよね。本当に」
やがて、響いてきた彼女の声は、しかし、穏やかなものに俺には聴こえた。失望も怒りも感じられない。どこか安堵したような優しい声。
「……え？」
思わず訊き返してしまっていた。
「うん。変わってないよ。昔っからそうなんだもん。ね？ね？覚えてる？幼稚園の頃、私が仁君のおもちゃほしがった時のこと」
ぽんぽんと肩を叩かれて、地面に目を落としたまま、たどたどしく答える。
「あ……うん。確か……親父に作ってもらったプラモデル……？」
「うん。飛行機だったよね。あの時、私が『ほしいっ』って駄々こねて泣いたでしょ？泣き止まなくて、お母さんも先生も困ってた時、仁君ったら……ふふ」
彼女はその時のことを思い出したのか、微笑しているようだった。
「『ほら』って私に押し付けたと思ったら、ぷいって顔背けてどっか行っちゃったよね」
「ああ……」
覚えている。確かその後俺は――
「あの時さ、仁君すごく泣きそうな顔してた。だから私、後をつけてったの」
「え……？」
「そしたら、仁君が廊下の隅の使ってない教室で、一人で泣いてたんだよね……それ見て私、すごく悪いことしたんだって思ったの、覚えてるよ」
「う……見られて……たのか」
頬が熱くなって、俺は俯いたままそっぽを向いた。
「あはは。それ以来、私は我侭を言わないよい子になったのです。はい」
彼女は楽しそうな笑い声は、さっきまでと変わらないようだった。
「小学校でもそういうところ、変わらなかったよね？仁君？仁君ってば」
ぽんぽんとまた肩を叩かれた。
俺の自分勝手で救いようのない愚痴を理不尽に叩きつけられたというのに。
不思議の感に囚われて顔を上げると、彼女は俺の方へと手を伸ばしてきていた。
「よしよしっ」
叩かれると思う間もなく……柔らかくふわふわと頭を撫でられた。
「え……お、おいっ？」
うろたえる俺に、彼女は微笑んで首を傾げる。まるでダメな弟を慰めるしっかり者の姉貴みたいな仕草。いつも恥ずかしくて跳ね除けていた……懐かしい仕草。
「やめろって！」
昔よりもずっと恥ずかしくて、昔のように振り払うより先に、彼女の手は離れた。
「ふふっ。どう？元気出た？」
笑う彼女を見て、自分の顔が火を噴いたのがわかった。
彼女の笑顔を見て安堵している自分に……気がついたから。
俺が俯いていたのは、情けない顔を見られたくないからでも、恥ずかしかったからでも、逃げるのを耐えるためでもなかった。
ただ、彼女の顔を……俺に失望した彼女の顔を見るのが怖かっただけだった。
――結局、俺は彼女に甘えていたんだ。
愚痴を言い出した時から……いや、小学生だったあの時からずっと。
情けなさと自己嫌悪とで消えてしまいたくなる。
これなら、叩かれ罵られた方がマシだった。
だけど、もう――これ以上弱音なんて吐けないじゃないか。
唇を噛んで悪態をつく。
「ぐっ……！勘弁してくれ。もうガキじゃないんだから」
「はいはいっ」
彼女の返事は二度返事だった。
「あのな……」
「五年の時だったかな。その頃だよね？晃君が美里ちゃんのこと好きになったのって
俺の苦し紛れの悪態には構わず、彼女は訊いてくる。
俺ももう俯くわけにはいかない。意地でも虚勢でも自棄でもいい。
真っ赤な顔でふんと鼻を鳴らして答える。
「ああ、さっき話した通りだ。それにしては、告白は高校に入ってからだったが」
「ふふ。でも、仁君はそれを言えないよね？」
「なんでさ？さすがにもう知られてて困ることはないぞ？」
嫌な予感がした。何となく無駄な抵抗だとわかった。それでもシラを切った。
「仁君もそうだったんでしょ？美里ちゃんのこと好きだった」
「う？」
「でも、晃君から相談されて諦めたってとこかな」
「うー……はぁ。わかった。わかりました。降参だよ。ったく……」
唸って、ため息をついて、俺は両手を挙げてみせた。
「どうしてわかったんだ？美里にも晃にも、気づかれてなかったはずなんだけど」
「ふふーん。女の勘を甘く見ちゃダメだよ。仁君」
「というと？」
「美里ちゃんも薄々は気づいてたよ？仁君と晃君が何か隠してることくらい」
「げっ……」
「決定的だったのは、林間学校のバスの席割りだったかな。美里ちゃんの隣が晃君になった時、仁君が晃君をからかって喧嘩になったよね。あの時、真っ赤になって怒ってる晃君を見る仁君の目……ちょっと寂しそうだったから。ああ、そうなのかなって」
俺はやれやれという風に頭を掻く以外になかった。気分は推理小説の犯人役だ。
「女の勘……いや、女って本当に恐ろしいな」
「うん。だから、甘く見たらダメなのです」
指をちっちっと振って言う彼女。俺が犯人役なら、彼女は探偵役のようだ。
でも、その偉そうな仕草はまるで彼女には似合わない。まるで迫力がない。
むしろ、可愛いくてどこか滑稽で――
「ぷ……あはははっ！」
俺はつい笑ってしまっていた。
「……しっかし、よく見てるなあ。そんなにわかるもん？」
「ふふ、丸見えだよ」
「おちおち浮気もできないな……怖い怖い。晃にも言っとくよ」
適当な俺の言葉にも、彼女は頷いてくれた。
「うん。ちゃーんと釘刺しておいてね。仁君なら、私が言わなくても言うだろうけど」
彼女の言葉に、俺も頷いた。
「ああ……いざとなったら、殴ってでも言ってやるさ」
そうだ。晃が浮気などするはずもないが、そんなことは万が一にも許さない。
「グーでね」
彼女は小さく握り拳を固めてみせる。
「ＯＫだ」
俺もぐっと拳を握ってみせる。
「あれ？」
でも、そこで彼女は笑って首を傾げた。
「そこは違うんじゃない？仁君」
「え？」
「美里ちゃんのこと今でも好きなら、二人が揉めた時にぱぱっと」
彼女は両手をぱくぱくと動かした。横から攫ってしまえというわけだ。
それが冗談だということくらい、鈍い俺にもわかった。
でも、笑って真面目に答える。
「却下だ。そういうのは性に合わない。わかってるだろ？」
晃と美里には幸せでいてほしい。俺は心の底からそう思っているんだから。
「うーん……やっぱり、仁君は仁君なのですね」
「そういうこと」
そうして二人で顔を見合わせて、ひとしきり笑った。
俺は大笑いして、彼女はくすくすと笑っている。
それだけで胸に何かが満ちていくようだった。暖かい何かは、胸を満たしていた冷たさも、心をえぐっていた氷柱も、溶かしてしまっていた。
――それは何だったのか。
「ふふ……ふぅ。何か安心しちゃった」
彼女が安堵のため息をついて笑いを納めた。
「ははは……そうか？」
俺も笑いを納めた。
――わかっていたから。
「うん。何もかも昔どおりなんだもん。仁君」
「性格はだいぶ歪んでるぞ？」
「でも、変わってないよ。自分がいくら傷ついても、結局人のこと助けちゃうんだもん。へそ曲がりでいっつも痩せ我慢ばっかりしてる」
彼女はベンチから立ち上がって、夜空を見上げた。丸い月が煌々と白く光っている。
――わかっていた。
「……優しくて、いい人だよね。お月様みたい」
「そんな柄じゃないぞ。綺麗でもないし、それに嫌なやつだ。優しくもない」
俺は苦笑して答えて、座ったまま月を、その下に立つ美希を見上げた。青白い月光が淡く彼女を照らしている。彼女の横顔は昔の面影をそのままに美しかった。
――彼女がこうして俺の目の前に現れた理由も……もう、わかっていたんだ。
「ふふっ……でもね」
美希は振り返って微笑んだ。

「私はそんな仁君が大好きだよ」

その言葉は待ち望んでいたもので。
その笑顔は眩しくて綺麗で。
夜空の月すら偽物に思えて。
「彼女こそお月様みたいだ」だと俺は言い返したくて。
悲しく……確信した。

――そして、彼女は……

バサリッ……
彼女の肩にかけられていたコートが地面に落ちた。
月が雲に隠れたのか、光が翳る。
月が雲から出てきたのか、光が降り注ぐ。
彼女の姿は消えていた。まるで、そこには誰もいなかったかのように。
「……だよな」
はじめからわかっていた。この再会が夢みたいなものだってことは。
だけど、気づかない振りをしていたんだ。
「まったく……慣れない嘘つくなよな。思わずツッコミたくなったっての」
彼女の家は近所だ。二週間前に帰っていたなら気づいている。母親同士の付き合いも長い。彼女だってそれは知っていたのに、お粗末にすぎる嘘だった。
「あのさ。あと一つだけ文句。お前の読みはハズレだよ」
俺は落ちたコートに話しかける。まだそこに彼女がいると信じて。
「俺が好きだったのは……美希、お前だったんだからさ」
小学校五年の時に、俺は彼女の一家が外国に引っ越すことを親から聞いた。
ガキの癖に頭だけはよかったらしい俺は、それが自分には止められない「大人の都合」だってことを生意気にわかってた。理解してたつもりで、諦めたつもりで、普通に接してたつもりで、別れの日までそれを貫いたつもりだった。
そうして、あの頃から……俺は自分に嘘をついていた。
本当は何もできない自分が悔しくて、美里がいる晃に八つ当たりしていた癖に。
「馬鹿だよな、ほんと……」
美里のことを好きだったわけじゃない。
好きな人の側にいられる晃が羨ましかったんだ。不公平だと思ったんだ。
本当に、中途半端なガキだった。
今でさえ二人が眩しくて、時折無性に目を背けたくなる。今夜もそうだ。
本当に、中途半端な大人だった。
彼女に勘違いされたのも無理はないだろう。
「それにさ、今更言われても困るぞ。だって、お前はもう」
彼女は、もうこの世にはいない。遠い外国で、事故に遭って。
俺は俺で、自分のことに必死で彼女のこともほとんど忘れかけていた。
残っていた最後の一缶を開けて、一気に呷る。
「いや……遅かったのは俺だよな。また嘘ついたしさ。ごめん。やっぱり、お前の言った通り、晃のこと笑えないや俺。ほんと、ごめんな」
首筋をわずかに冷たく濡らして、すぐに酒はなくなってしまった。
懐の煙草を取り出して、咥えて火をつける。
カチン……シボッ……カチン。
「ははっ……こほっ……」
笑ってむせた煙草の煙は、わずかに塩辛い味がした。
酔いはだいぶ醒めていたけれど、もう寒くはなかった。
彼女も変わっていなかった。まるで昔のままだった。
はじめて会った時から彼女は、嘘が下手で、お節介で、ませていて……
他人のことにはよく気がつく癖に、自分のことには本当に鈍いやつだったんだ。
紫煙はゆっくり月へと昇っていく。
それはしばらくの間、絶えることはなかった。

やがて、遠く駅前の人通りが少なくなった頃、俺はハンカチで眼鏡と顔を少し拭った。
ベンチを立ち上がり、落ちたままのコートを拾い上げて、後片付けをした。
そうして、誰もいないベンチを見た。
「ありがとう。わざわざごめんな」
告げて、背を向けて、家へと歩き出した。
『どういたしましてだよ。仁君』
返事が聞こえた気がして振り返る。
「……ははっ、まったくさ。お前も相変わらずだよな。それじゃ、また」
俺は苦笑して、やはり誰もいないベンチに、もういない彼女に手を振った。
彼女――美希が見ていた俺も、晃や美里が今も見ている俺も、変わってはいなかった。
昔から臆病で、偽善者で、不器用で……素直になれなくて、嘘ばかりついてきた。
「いい人」なのかもしれない。「嫌な人」なのかもしれない。

「どうでも」＋「いい人」なのかもしれない。

「それでもいいじゃないか」
俺は前を向いて一人、夜の街を歩き出す。
夜空を見上げる。彼女と見上げた月が、静かに街を照らしていた。

ＦＩＮ